【歴史・施設】
蕎麦処会津を代表する山都そば。
その発祥の地は喜多方市山都町の宮古地区という人口59人(平成23年11月30日現在)の小さな集落から始まった。
もともと宮古地区は蕎麦や小豆の生産が主な産業だった。
蕎麦の実や蕎麦粉、打った蕎麦を山都町や喜多方市へ卸すのが仕事であった。
宮古地区での蕎麦文化はと言えば、祝い事があると蕎麦を打ち、家に来客が来ると蕎麦を出す、というごく普通のおもてなしのためのご馳走として振舞っていた。
男子厨房に入らず、の通り、蕎麦打ちは女性の仕事。
今では男性も蕎麦打ちをする時代だが、宮古の蕎麦名人は昔から変わらずおかあさんたちである。
この宮古の蕎麦はどこのお店も十割蕎麦。日常として蕎麦粉のみで打つのが普通なので、十割そばをすごいとは思っていない。
逆に二八そばの方が打つ方が難しいと笑って話してくれた。
昭和61年頃、この蕎麦文化が残る宮古の蕎麦で村おこしできないか、と行動を起こしたのが唐橋商店の唐橋さんだ。
周りの蕎麦農家さんへ声を掛け「家で打っている蕎麦で蕎麦屋をしてみないか?店は家の座敷でいい。」と説得。
最初は驚いた農家さんも、休日だけなら・・・と開始。
始めてみると「こんなに美味しい蕎麦は初めて」など称賛の声ばかり。
わざわざ宮古まできてくれて自分たちの蕎麦を食べてもらえることが嬉しく
「食べた人が喜ぶそばを…」の合言葉でそばを出すお店が一軒、また一軒と増えていった。
平成6年には第1回全麺協日本そば博覧会も山都町で開催されたほど、この地の蕎麦は全国に広まっていった。
【生産者情報】
唐橋さんは先代からずっと宮古地区で採れた蕎麦や小豆、山の幸を加工し、卸す仕事をしていた。
昭和40年頃から唐橋商店として営業を始め、10キロ少しある山都町までよく蕎麦を背負って歩いて行っていたという。
「昔、米が取れない宮古地区は貧乏部落と言われていてね、売ったもので米を買うしかなかったんだ。」
それが今では秘境地にある「秘蕎麦」として唐橋商店の営む蕎麦屋「西村屋」にも全国からお客様が来るほどになった。
《宮古そば処 西村屋》
宮古地区の蕎麦屋の特徴は、どのお店も民家ということである。
普段住んでいる民家の一部を蕎麦屋ようの客室とし、店を営んでいる。
宮古の蕎麦屋は予約制が多い中、西村屋は予約なしで行っても食べることができる数少ないお店だ。
メニューは一つだけで、蕎麦を頼むとまずは小鉢が7品も出て来る。
すべて山の幸を使った唐橋さんの手作り。
特に今おすすめなのが蕎麦刺身コンニャク。
この蕎麦刺身コンニャクは福島県観光みやげ品として推薦されているお墨付の一品。
ゼリーのような舌触りなのに、噛めばしっかりとコンニャクの弾力がある。
ツルっとした喉ごしまでみずみずしい。
この一品だけでも食べる価値があると言える。
その他にも宮古で採れた山菜の煮付けや会津の名物・凍み豆腐の煮物は絶品。
メインの蕎麦は、ちょうど良い量を茹でたてで3回持ってきてくれるので常に茹でたての一番おいしい蕎麦が食べられる。
ここまでしてくれる蕎麦屋は全国でもめずらしい。
だからこそ、宮古蕎麦のファンが全国にいるのである。
唐橋さんはこれから、宮古そばの段々畑や山桜のスポット、ネムノキの環境整備などに取組んでいきたいと言う。
もっともっと地元を良くしていきたいという思いは強く、まだまだチャレンジは続くのである。
【東北大震災の影響】
地震直接の被害は無かった山都町。
それでも蕎麦屋を訪れるお客様の数は減ったり、商品を出すのにも気を遣っている。
放射線のチェックも喜多方市でやっているとのこと。
まじめに一生懸命作っている農家や生産者の方々が風評と戦っている。
もっと情報のアンテナを広げ、正しい情報を入手してほしいと願う。
【応援商品】
【MAP】
投稿者: 素材広場|この記事へのリンク